幼少の頃
8歳年上の兄がおり、保護者3人のような環境下の中大切に育てられた。
両親の出身地は群馬県
父の仕事の関係で宇都宮市に居住したため生まれも育ちも栃木県宇都宮市。
兄がいたことで生まれた時からピアノの音には触れていた。
幼稚園は毎日同じことをするので退屈で、月が変わって新しい歌を覚えると休みがち。(登園拒否)
うちで白鳥の湖のレコードを聴いて踊ったりすることが大好きだった。
家の雰囲気は几帳面で綺麗好きの父がいて、母も感情的に行動するタイプでなかったので。
大きな声を出された経験がなかったため、近隣の友達の家に行くのが苦手(遊びに行った家の母親が、いつも怒っているような気がしたから)
ヤマハ音楽教室に通いはじめたのは、年中4歳の5月。
小学生
幼稚園時代の登園拒否は全くなく、小学校生活をスタート。
ヤマハ音楽教室幼児科を卒業したので個人のピアノの先生に。
先生は東京在住でご実家に週末教えに帰っていらしていて、とても都会的で、ゴージャスな方で、憧れの存在。
このかたに大学受験のための先生を紹介していただくまで、指導を受ける。
小学2年の時に病気をして入退院を繰り返す。
初めてのピアノ発表会に出られず残念であった。
その時の曲目。
クレメンティソナチネOp36-3
小学3年生からは健康を取り戻し、学校生活、ピアノ、習字、バレエ、吹奏楽クラブでフルートなどフルに活動。
母のサポートもあって全てをこなした。
小学5年生の時初めて地元の栃木県学生コンクールを受験する。
曲目ハイドンソナタ第50番ニ長調。
当時はオープンリールの録音機で録音し練習。
レコードを買って聴くなど、これも8歳年上の兄のサポートで行う。が、予選落ち。
しかし、力の限り努力したので、悔しかったが悔いはなかった。
小学6年で中学受験。
しかしながら学力試験は合格するも、抽選で落選。
悔しくて、公立の中学に行ったら、ピアノ以外の習い事は全てやめ、勉強に専念し高校を目指すと心に決める。
中学生
部活動も入部せず、ピアノと勉強に専念。
中学1年生で再度コンクールに挑戦。
見事に予選通過。
シューベルト 即興曲 Op.90-2
公立の中学校で3年間を無事過ごす。
高校生
念願の栃木県立宇都宮女子高等学校に入学。
がしかし
小学校、中学校を通じていつも成績上位であったため、NO1スクールで周りに圧倒され、一気に劣等感を感じ、学校に行きたくなくなる。
勉学も士気が下がり、全く努力せず、そして得意のはずのピアノもクラスには栃木県のコンクールで最優秀の人がおり、合唱コンクールの課題曲でさえ、弾けないことを馬鹿にされたような被害妄想があり、ピアノを辞めたいと思うようになった。
両親に大学は経済学部に行きたい。
嘆願したところ、兄が、『勉強は大人になってからでも努力すればできること。
4歳から習って、できるようになったピアノは易々とできることではない。
辞めないで続けるべき。
勉強ができるようにならないのなら、教育学部ではなく、音大に言ったらいい』と両親をも説得してくれた。
公務員の家であったので音大受験は金銭面で苦労。
国立の教育学部音楽を目指していた。
勉強のしがらみから抜け出せた私は救われた。
音大の先生のレッスンを受けに東京毎週東京通いが始まる。
当時音大の先生は鬼のように怖く、始発の電車で行き暗くなる頃帰宅。
帰りの電車ではいつも泣きべそ。
一人で昼食をとることもままならず、満員電車はフラフラ。
宇都宮駅まで迎えに来てくれる母に安堵し泣いていた。
その頃母が癌に侵され闘病が始まる。
東京の音大を受験するが不合格。地元の短大に入学。
大学生
地元の短大で覆面浪人して再度、東京の音大を目指そうと思っていたが、大学生になり、車の免許も取り、18歳の6月からは近所の子供にピアノを教え出し、音楽教育の魅力を感じるようになる。
短大にはリトミック板野平先生の愛弟子の先生の講義があり興味を持ち、先生の鞄持ちをして、保育園などアシスタントをかって出ていた。
ということで、地元でしっかり勉強をする決意となった。
短大卒業時、開講する、短大附属の子供音楽教室の講師となる。
35歳まで在籍。
短大卒業短大の研究科を2年在籍ピアノ研鑽を積む。
社会人 22歳の時現在の夫と知り合い23歳で結婚。
結婚
23歳の時最愛の母を失くす。
夫は東京都出身転勤族。
30歳まで宇都宮で夫と暮らす。
転勤のため、自分は宇都宮でピアノ教室、週末夫の転勤先に出向く二重生活。
そのような生活のため、子供には恵まれず。
東京の音大に行けなかった悔しさが地元でNo1のピアノ教師になりたいと思うバネになっていた。
地元の短大の教授の傘下で苦労した役回りもあったが、人生を広げてくれることもそれ以上にあり、今の自分に成長させてくれたと感謝しかない。
音楽教育学、演奏学、人生学。生き方の全てを享受してくれた。(故田淵進教授)
40代~
自分の生活スタイルは変わることなく順調にピアノ教室を運営。
42歳の時最愛の兄をくも膜下出血で失くす。
この時自分に誓ったこと。
やりたいことは全てやろう!
悔いのない人生を今、送ろう。
(兄は自由奔放であったが、母は子供たちのため全てを犠牲にしていた)
私が一番やりたいこと、豊かな人生を音楽と共に歩んでいける子どもを育てること。
この頃20代で心血を注いで育てた生徒がママになり、その子供育て始まった。
親子2世代の生徒たち。
子育てをしながら、ピアノ教師として頑張る生徒に全面的に鼓舞激励する。
そして夢見たのはその子供たちが世界に羽ばたいていけるように一心不乱にサポートすること。
時間も、金銭面もサポートした・・・はずであった。
がしかし・・・・青天の霹靂。
6年生の子供が心を閉ざした。
親は全ては私のせいだと訴え。
その間、仲裁に入ってくれた一番弟子が癌で44歳の若さでなくなる。
弔辞を読むことになるなんてなんと悲しいことでしょう。
順風満帆の自分のピアノ教師人生の疑心暗鬼の時代です。
そしてコロナ禍もう一人愛弟子が24歳の若さで自死を選ぶ。
これまた弔辞を読むとは。
心を閉ざした、12歳が20歳になり、最近メールが来た。
「思うところがあって、横山先生に師事していたことをプロフィールに載せても良いか」と
飛び上がるほど嬉しかった。今を生きて四苦八苦するからこそ味わえる喜び。人生は山あり谷あり
自慢の生徒
40年のキャリアの中で、200名にのぼる生徒との関わりがありました。
音大を卒業(武蔵野音楽大学作曲科、東京音楽大学ピアノ専攻、東京音楽大学指揮科、国立音楽大学ピアノ専攻、桐朋学園大学大学院、東京藝術大学大学院、宇都宮短期大学音楽科)して、ピアノ講師となった生徒の中には、ピティナピアノコンペティションで指導者賞受賞する者(2014年度 PTNA新人指導者賞)もいます。
ピアニストとして活動する生徒もいますが、指揮者、作曲家、プロオーケストラでヴァイオリニスト。
はたまた、ロックグループのリーダーでドラマー、ゲーム音楽の作曲家&プロデューサーなど。
プロの音楽家として活躍しています。
音楽大学に進学しない生徒は教育学部の音楽専攻や幼児教育専攻(宇都宮大学、埼玉大学、東京学芸大学、文教大学、國學院栃木短期大学、作新短期大学、佐野短期大学)を卒業し、幼稚園、小学校、中学校、高校の音楽専科で教鞭をとっています。
特に思い出に残る生徒の活躍としては、2003年に中学2年生で初めてPTNAピアノコンペティション全国大会に出場した生徒が、その後グランミューズA1カテゴリーで1位。
2002~2012年の10年間PTNAピアノコンペティション全国大会に出場し続け、2008年にはグランミューズB1カテゴリーで1位
2009年にはグランミューズDカテゴリー1位、2010年には連弾上級1位となった生徒。
その一人はその後指揮者になりました。
また、近年では、反対を押し切って、ヴァイオリン奏者の道を歩んだ生徒が、東京シティフィルの正団員になるなど。
数多くの歩みと共にいます。
この成果は、幼児期から長い期間、【横山朋子ピアノ教室】T MUSIC STUDIOに在籍して音楽を人生の友としてくれているから自ずと進路の方向となるのだと思っています。
自身の賞歴
PTNAピアノコンペティション2000年〜2023年連続優秀指導者受賞
2010年には特別指導者賞。
ブルグミュラーコンクール指導者賞
栃木県ピアノコンクール指導者賞
2023年度の生徒の活躍
PTNAアノコンペティション
A2級2名本選出場奨励賞
A1級2名本選出場
B級3名本選出場 1名奨励賞
C級1名本選出場第1位全国大会出場
D級1名本選出場
連弾初級B3組本選出場
連弾中級A3組本選出場 1組奨励賞
グランミューズYカテゴリー2名本選出場 1名奨励賞、1名優秀賞
ショパンコンクールインアジア
ショパニスト(アマチュア部門)銀賞
栃木県学生音楽コンクール
中学1年金賞
中学3年金賞
高校2年金賞第1位